イスラム系家族がやっていた朝飯屋台
青島二日目の晩、つくづく英語の通じないホテル青島飯店からかばんを受け取って、鉄道ターミナルまで行った。考えてみれば中国の極東の地、青島からはずうっと大陸に鉄道が伸び、乗り継いでいけば、中央アジア、西アジア、最後にはヨーロッパにたどり着く。僕は昔ヨーロッパから西アジアを旅行してインドで旅を終わっているので、中央アジアのにおいのする中国西部にいつか行ってみたかった。今回はとりあえず、西世界と東世界を結ぶシルクロードの東の終点、古都西安に足を伸ばしてみることにした。
SARSがまだ完全に消えていなかった当時は、改札の前に健康証明書提示を求められた。それが見つからず、ちょっと焦ったが、無事夜行列車に乗り込めた。安い寝台車の三段ベッドの中段をもらった。心配していたトイレも我慢できる程度(僕の少年時代の日本の国鉄のトイレってところか)だった。各車両には給湯室がついていて、ポットにお湯をくめるのがうれしかった。ただ、誰とも話さない旅になった。
夜の間にも列車は時々駅に停車し、売り子が入ってきたり、乗客が変ったりしたが、外の様子は暗くてあまりわからなかった。停車駅で色んな食べ物を売っていて、いろいろトライしてみたかったが、長時間の旅なので食べ物に関してはあまり積極的になれなかった。駅の売店も売り子も盛んに売っていたカップラーメンが中心になった(まだまだ地元の人には高い値段だった)。
翌日はほとんどが雨だったが、そんなに大きな町もなく、ほとんど森や点在する小さな家々をみていた。十八時間の旅は最後はやはり疲れたが、夕方無事、西安に到着。駅前に出ると、さすが大きな観光地だけあって英語の通じる観光案内所があって、目指すホテルへのバスでの生き方などを教えてもらえた。
バスに乗ってみると、この町が日本の京都そっくりのつくりをしていることが実感できる。考えてみれば京都はこの西安をまねて作られたのだから当たり前なのだが。目的のホテルのある青年路という道は学生街の一角らしく、これまた京都の京大周辺みたいで親しみがもてた。ホテルは少しだけ英語が通じ、しかも思ったよりも安かった。晩御飯に出るとホテルの辺りの通りは屋台や小さなレストランがいっぱいで、すごく活気ついている。大きなすいかがあちらこちらに売られていた。暑かった空気が少し冷めはじめて、人々は外に晩御飯を食べに出るのを楽しんでいるようだ。僕もちょっと勇気を出して、なべ物の屋台に挑戦。小さな土なべをひとつひとつ火にかけているのを指差して注文する。屋台の前の低いテープルの上で食べる土なべはとてもうまかった。しかも4元(50円ぐらい)と安い。
日本からサンダル履きでやってきたのだが、道が悪く、足がよごれるので靴を買うことにした。新しい靴を履いて行こうとすると、店の人が靴ひもまで結んでくれた。アメリカでのドライな買い物になれていると、こういう親切がとても新鮮に思えてしまう。
翌朝、ホテルを出るとイスラム街へと向かった。舗装もあまりされてないほこりっぽい道、屋台、自転車、力車でごったがえした通りは、十年前にヨーロッパからアジアに向けて旅した時の最も東の地、北パキスタンのにおいがした。そこからもう少し東に行けば中国西方に入るという直前に来ていたが、進路をインドに変えたために、行けなかった未踏の土地が、ここ西安から先に北パキスタンまで続いているのだ・・・。朝食をとろうと、揚げたパンを白いスープにつけて食べている屋台に座った。やっているおやじは中国人の顔をしているが、手伝っている男の子が親し気に笑ってきた。彼は明らかに中近東の顔をしていた。
ここは中近東文化の極東の地でもある。イスラムという意味の「清真」と書かれた看板があちらこちらで見られた。歩いていると木造の門の後ろに中近東でみたのと同じようなモスクが見えた。おそるおそる入ってみると、中の人が親切に案内してくれた。多少中国風にアレンジされているがのがおもしろい。僕は依然中近東を旅行したことを説明したつもりだったが、彼らに伝わっただろうか。
西安は、西洋との交易で昔から栄えた地なのである。西からの文化と東の文化がここで出会い、屋台や店をみていてもわかるように、多くの文化が混在している。色々な人種が混じり合ったのだろう。人々の顔も東方にある北京とはちがっていた。
二日目の夜は串を食べた。焼き鳥だとは思うが、一オーダーで四十本ぐらいあったのではないだろうか。ビールを飲みながらがんばって食べたが、二十五本ぐらいでギブアップしてしまった。