ソビエト諸国の風
イスタンブールを後にした僕はひたすら東に向かおうとしていたが、旧ソビエト連邦諸国を通って旅した人がいることを聞き、僕も挑戦して見たくなった。黒海沿岸のトラブゾンという都市に来ると、ソビエト崩壊以来通過が楽になったためか、すごい数でロシア人を初め旧ソ諸国の人々が入ってきてた。娼婦やフリーマーケットで怪しげな雰囲気がただよう。ここからだと隣のグルジア共和国、アゼルバイジャン、トルクメニスタンを通ってイランに行くことが可能だとおもわれる(とりあえず地図上は問題なさそう)。グルジアへのビザ所得の看板をかかげている旅行代理店を尋ねる。グルジアのビザ所得は日本人の僕はなぜか100ドル払わなければならなかった。代理店のおっさんはグルジアで勃発していた戦争はもう終わって安全だとぬかしていた。ここでスコットランド人のスティーブンに会う。彼は僕と同じ年ぐらいの建築家で、グルジアを通って隣の小国アルメニアの建築を見にいき、ついでにそこにいる友達に会いにいくつもりだった。僕たちはなかよくなり、一緒に行動した。トラブゾンからグルジアのバトゥミに行く国際船に乗ろうとしたがしばらく欠航していて、この代理店が計画しているバスのツアーに加わることにした(少々高かったが)。僕はソビエト諸国ではトラベラーズチェックはつかえないだろうと、かなりドルキャッシュにかえておいた。ツアーのバスにはサダムフセインの政策から逃れてロシアへ亡命する途中のイラク人でいっぱいだった。それとグルジア人の若くてハンサムなカップル。ヨーロッパとアジアの間に位置するグルジアは旅行者の間ではひそかに話題の美人の国だが彼等を見てるとなっとくがいく。僕はこの旅が面白くなってきた。
歓迎された僕たち
バスは僕たちを国境で降ろして帰っていった。トルコでラジカセなどを買って帰るグルジア人がゲートをくぐる。係員は僕たちのビザに問題があるとかなんとかいって金を要求してきた(どうやら、そんな国にやってきたようだ)。イラク人にならい僕たちも50ドル払い通過。そこで待っていたタクシーでバトゥミの町までやってきた。ここから首都トビリシまで列車が走っている。駅で一人のおばあさんが切符を売りたがっていたので彼女から買った。ただ次の列車は夕方までなかった。バスでいく方法もあったが途中強盗にやられる危険性が高いと聞いた。駅で信用できそうな人にバックパックを見ててもらい、ゆっくりと食事でもすることにした。初めてくる共産圏は雰囲気がかなり今までの国と違った。人は多いが、どこか静けさがただよう。売店らしきものもほとんど何も売ってない。それでもなんとか食事を出すところを見つけて食べていると、隣のグループが僕たちを彼等のテーブルに招いた。外国人がめずらしいのだろう、えらい歓迎をしてサラダなど食べさせてくれた。そのうち僕たちをバトゥミのあちこちに案内したいといいだした。うち一人のおっさんは大きな髭をはやしたトルコ人で(そのころ少しはトルコ語のボキャブラリーがあった僕たちは)言ってることが何とか理解できた。ちょっとためらったが列車の発車までまだ時間があったのでそうすることにした。
僕とスティーブンは彼等のうち3人と車で出かけた。最初、ガソリンを買いに民家に行った(ガソリンスタンドなるものはないらしい)。それからワインを買い海岸ちかくで飲んだ。昼下がりの日を浴びて美しい景色とともにすっかり気持ちよくなった。それから3人のうちのひとり、背の高いのが何かを取りに家に立ち寄ったようだった。車はさらに走り、いつの間にか山に入っていた。「いったいどこに行くんだ?」と聞くと「景色がいいところへ」などと応える。僕たちはこの時車を飛び降りるべきだったのだ。ある程度山中を進んで車を停めると、トルコ人が「いくら払ってくれる?」と聞いてきた。しまった!はめられた!! スティーブンは車から逃げたが背の高いやつにつかまえられた。手に斧を持っていた(彼が家に取りに行ったのはこれだった)。僕は車から出ようとしたが二人に取り押さえられた。動けない!背の高いやつはスティーブンにデイパックをわたすように斧で脅している。一方、僕のデイパックの中身を没収したトルコ人は「金はどこだ?!」と聞いてきた。言わないでいると二人が僕をなぐりだした。「金ははらうよ!」と僕はさけんだが彼等その英語がわからんらしく、そう言う度になぐった。スティーブンのデイパックを奪った背の高いのが今度は車の外から僕を蹴りだした。トルコ人は僕のマネーベルトに気付き、僕の腰から引きちぎった。彼は現金だけとるとトラベラーズチェックもパスポートもすべて捨てて車で去って行った。残された僕とスティーブンはその場からすぐに助けを求めて山を下った。幸い人家が近くにあり、そこに駆け込んだ。二人とも多少怪我をしていたのでそこの人は親切に手当をしてくれた。彼等はトラックで駅に連れて行ってくれるとバックパックは誰も手を付けず無事だった(これは今思うと奇跡的だった)。その晩、僕たちは警察署に運ばれ、そこで眠った。
僕たちふたりは翌日から事情聴取をうけることになる。英語のわからないものがほとんどなので、政府観光局のロシア人ボリス氏がやってきて詳細にわたって事情聴取をうけた(これはほとんど無意味なことが後からわかるが)。僕のなくしたものはカメラを含めたデイパックの中身と現金600ドル分。チェックを現金化したことがくやまれる。スティーブンのデイパックにはパスポート、カメラ、ハンディビデオカメラその他高額の貴重品が入っていた。この国では連中は何か月もの金に変えられるだろう。スティーブンはパスポートがない限り身動きがとれない。金も行き場もない僕たちは警察署の一室で寝泊りを続けた。部屋にはこの国出身とされるスターリンの写真がかざってあった。現在のリーダー、シュワルナゼも好感をもたれているようだった。気前のいい警察官がご飯をおごってくれたりした。署長らしい人があわれんで50ドルものキャッシュをくれた。金を持っている人はもっているのだ、、、。
警察は犯人らしい人間を見つけてきて僕たちに見せたが、例の3人組のだれでもなかった。二日後だったろうか、ある男が捕まって連れてこられた。彼は3人組の一人ではなかったが、僕のカメラを含め、盗まれた品の一部を所持していた。この時、警察官数人がこの男を拷問して仲間の居場所や他の品々のあり場所をはかせようとしていた(と思う、何しろ言葉がわからない)。その拷問があまりに痛々しいので僕たちは見るに耐えなかった。ともあれ、所持品の一部は帰ってきた。
ある日相談役になっていたボリス氏がバトゥミにアメリカの銀行があってそこでトラベラーズチェックを現金化できるという。銀行の中に通されると外のバトゥミの町とは多違いのモダンな別世界だった。こんな地でぼろぼろになっている僕たちにも外の世界とコンタクトができた。高いコミッションをとられたが、ロシアのルーブルとグルジアのクーポン(本当の意味で現金ではないらしい)を得て、やっと僕は現金を持つことができた。そこで警察の紹介で安いドミトリーを紹介してもらい、そこに移った。他にほとんど泊まり客はいなく、広い部屋を二人で使えた。僕たちは何日かぶりにベッドの上で寝ることができた。ドミトリーの番人はいつも軍服を着て(それしかなかったのだろう)、テレビを見ていた。アメリカの映画をやっていたが、吹き替えは一人の声優がすべてこなしていた。
町には立派な建物も多いがさすが共産圏、看板などはなく、寂れた雰囲気がただよう。パンを買いに行ったことがあったが人の列ができていた。ボリスのいる政府観光局も訪れたが政局の荒れたこの国に来るものはなく、悲しい感があった。彼によると、ソビエト連邦崩壊後ひどい経済になり、今政府からの月給は3ドルだけで、他にいろんな仕事を見つけなければならないという。ガムサクーディア率いる反政府グループによる反乱戦争で今この国は最悪の状態にある。バトゥミは一見静かに見えるが戦争の風は人々を深く混乱している。金を持っているのはギャングと一部の層だけだ(彼等はけた違いに金を持っているという。)。グルジアは黒海に面したとても豊かな土壌をもっていて気候も温暖でいろいろな可能性を持つ国とされているが、現在そのように機能していない。
二度目の出発
ある日僕たちはスティーブンのパスポートが届けられたとの連絡を受けた。だれかか道に落ちてるのをみつけたとのことだ。これで彼のビザも再発行でき、僕たちは旅を続けることにした。ボリス氏は早く国を出てトルコに帰るように言ったが、もともとの予定どうり、首都トビリシまで列車で行くことにした。そこからスティーブンはアルメニア方面へ、僕は東どなりのアゼルバイジャンへと行くつもりだった。再びバックパックをかついだ僕たちは切符を買い、他の人々とともに例のバトゥミの駅で列車を待った。夜10時位に出る予定だった列車は機械の故障で遅れ続けた。かなりの人が駅構内で座りこんで待っていた。皆それぞれ生活がたいへんそうだった。
最終的に列車が着いたのは明け方近かっただろうか。乗り込むと中は真っ暗でよくわからない。すでにいろんな人が寝台席で寝ているようだった。ぼくたちの切符の席はもう誰かが寝ていた。どうやら間違った座席番号を発行したらしい。まだ出発までわずかに間があったのでスティーブンは僕と二人の荷物を置いて切符売り場に問い合わせに行った。車内の暗闇で僕は荷物を横にして彼が帰って来るのを待った。この時、たいへんなことが起こった。列車が動き出したのだ。スティーブンはもちろんまだ帰ってきていない。どうしよう?僕はあわてた。列車は2〜3分走って止まった。僕は車内の近くにいる人に友達が乗り損ねたことを説明した。トルコ語と身振り手ぶりをまぜて。目がなれてきて車内にいる人々の顔がうっすらわかった。ある男性と向かいあって話しをしていたがやがて近くにいた4人位の男性グループにも説明を繰り返した。とにかくどうしたらいいのかわからなかった。ふと僕はスティーブンが駅から線路沿いに列車を追いかけてくるかもしれないと考え、窓から顔を突き出して後方を少しながめた。その間わずか1分位だったろうか、元の場所にもどってみると今話した4人組がいなくなっていた。そして二つあったバックパックが一つになっていた。スティーブンのが消えていた!僕は慌てて先ほど話した人々を見つけて聞いて見た。ところが誰もなにも知らないという。そんなはずはない。今さっき皆と話したばかりじゃないか!!皆がグルになっているのか?4人組は列車の外に逃げたに違いない、まだ近くにいるはずだ。僕は列車から出て線路の上を走って彼等をさがした。雨が降っていたが黄昏時が近くうっすらと明るくなっていた。他にも貨物車やらが止っていて、コンテナ車のなかやら外やらをみまわしたが彼等の姿もスティーブンの鞄も無かった。途方に暮れて列車にもどった。
空が明るくなり出した頃、列車が逆方向に戻り出した。どうやら連結のため最寄りの列車基地にいただけのようだ。バトゥミに戻り、スティーブンが他の人々とともに列車に乗り込んできた。僕は彼にすべてを話すと、二人でとにかく列車の中をくまなく探すことにした。出発した列車はそのうち、ある駅に長く停車した。鉄道警察がいてたので、彼等にことの次第を話すとすべての乗客の荷物を調べてくれることになった。列車は満席で皆がトビリシへいくのだろう、大きな荷物を持っている。その一つ一つをチェックしていった。寝てない疲れとスティーブンの僕への憤りを受けて死んでしまいそうになりながらさんざん探したあげく何もみつからなかった。
絶望した僕たちを乗せて列車は走り続けたがエンジンの問題のためしょっちゅう止まって、ながーく動かなかったこともあった。どうしようもない気分の僕は列車内を歩き回った。何人かが毛いろの違う僕がどこから来たのか聞いてきた。僕は日本人とは言わず、カザキスタン人だとか言ってかわしていた。車掌が僕を呼び止め、怪しんでパスポートの提示を求めた。彼は僕が日本人だとわかるとパスポートをなかなか返してくれず、難癖を付けて金を要求してきた。この国は人間が本当に荒んでいる。僕たちの寝台席にもどるとスティーブンは悲嘆にくれて泣いていた。今回は彼はパスポートなどを除いて所持品すべてをなくしたのだ。貴重品だけでなくアルメニアの連絡先や今までの土産なども。同じ車両であわれに思って彼にクーポンを恵む人もあった。彼はこの時点でトビリシに行かず引き返すことを決意した。彼には一文もないし、こうなったのも僕の責任が大きい。僕は彼といっしょにトルコにもどることにした。夕方になってもトビリシまでの行程の3分の1も進んでなかったし、このまま進んでもいったい何日かかるかわからない状態だった。戦争をやっている国とはこんなものか。次の駅で反対方向の列車に乗り換えることにした。少し時間がありそうなので少し二人とも眠ることにした。打ち解けていた同じ座席の人に荷物をみてもらって寝台で横になった。1〜2時間たったろうか、駅に着いて皆に別れを告げて降りた。夜も遅かった。駅の係員に事情を説明し、翌朝のバトゥミ行きが来るまで係員室で眠らせてもらうことにした。このとき一つ気が付いた。僕のデイパックからカメラを含めいくつかのものがなくなっていた…
旅をあきらめて
駅の係員の計らいで個室になったコンパートメントに乗せてもらったが、またもや乗務員がいろいろ難癖をつけては金を要求してきた。もう誰も信用できない。身も心もぼろぼろになっていた僕たちからさらにしぼりとろうとしているのだ。僕たちはもうほっといてくれと懇願していた。遠くてつらいバトゥミへの道だった。来るんじゃなかった。僕たちはこの荒んだ地に舞い込んだ裕福な国からのばかものだった。人々がどんなひどい状況にいるかも知らず地図だけをみて旅行しようとしていたなんて。
バトゥミに着いてボリス氏の住む公団住宅を訪ねた。もともとギリシャ人だという奥さんが暖かく招きいれてくれた。清潔な感じだったが生活は苦しそうだった。ボリス氏は僕たちを戒めた。ここは戦争をやっている、外国人が旅行する国ではない。例の警察署長もつい2〜3日前射殺されたと。一刻も早く出ていくべきだ。彼はそれでも僕たちを食事に連れていってくれた。彼には本当に感謝するべきだ。バトゥミからトラブゾン行きの船は相変わらず欠航していた。そこでやはりタクシーを使って国境に行くしかなかった。最後の日はそれでもグルジアの土産がほしくて、本などを少し手に入れた。トルコ料理レストラン(知る限りバトゥミで唯一のまともなレストランだった)で最後の午後を楽しんだ。タクシーで国境に着くと、最後の難関、出入国管理官がこのビザでは出国できないとやはりきた。もうバトゥミに帰りたくない僕たちはなんとか踏ん張り、スタンプをもらった。いよいよトルコだという時ゲートをオープンする奴が難癖を着けて金をせびってきた。現金をにぎらし、急いで国境を超えた…!必死だった。「共和国だ!」とスティーブンが叫んだ。うれしくて肩を組んだ。10日ぶりのトルコが天国に思えた。
それからの数日間僕とスティーブンは一緒に行動した。彼はアンカラからイギリスに帰る航空券は持っていたがそれまでの費用は僕が持った。何しろ何もかも無くした彼はトラブゾンの市でカバンや着替えを揃えた。少しお土産もほしいと少ないお金で本をバッグいっぱい買った。彼は冷静になっていて僕への怒りもなかったが、ものをなくしたことよりもやはり旅が中断されたことが残念だったはずだ。彼の荷物紛失に関しては責任を感じていたので、お互いが国に帰った後、損害額の一部を払うつもりだった。こうして、地獄のような10日間を一緒に過ごした二人はお互いの住所を交換し、彼はアンカラへ僕はイランに向かって別れていった。
半年後日本に帰った僕は彼に手紙を書いたがいっこうに返事がない。もうこのことについて触れたくないのだろうか。今思い直すとどこからどこまで僕たちが状況を判断していたかわからない。バトゥミの警察は本当に犯人を見つけられなかったのだろうか。なぜ盗難品の一部やパスポートだけ帰ってきたのか。もし盗難品を没収してもはたして正直にそれらをぼくらに帰すだろうか。みんな今日食べることで精一杯の状況なのだ。殺された警察署長はあの時どうしてあんなに米ドルの札束を持ってられたのか。警察とギャングたちがどのようにつながっているのかも僕たちにはわからない。
一年後、反乱軍リーダー、ガムサクーディアが戦乱のなか自殺したとアメリカで読んだ。今となってはすべてが遠い国での昔話となった。それでもグルジアの人々も、僕も、スティーブンも同じ地球上で今現在生活しているのだ、、、。
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