Page2: 始めての滞在〜様々な出会い


デ・ヤング・ミュージアムで僕の心をとらえた
Arthur F. Mathewsの油絵

 仲野さんにアパートを探してもらっている間に行ったグランドキャニオンは灼熱地獄だった。そこから帰ってきたバークレーはうって変わって、夏だというのにとても過ごしやすかった。カラ・インスティテュートの版画工房で制作しながら夏の間ここに留まることにする。五月からアメリカ横断をしたりして動き回っていた旅行は一旦ストップして、一所で生活をしてみることになる。
 カラの仲野さんに紹介してもらった住居はハウスシェアでハウスメートが他に三人いた。皆二十代の白人男性で、UCバークレーの学生やロックドラマーなどがいた。この家はBARTのアッシュビー駅のすぐ側で、週末にそこでフリーマーケットがあるというので行ってみた。色んなヤツらが色んなものを売ったり買ったりしている。様々な肌の色、格好、色々な国の色々なモノもの。この市はその後の僕のベイエリアのイメージを作ってしまった。ここで中古の自転車を買ってそれが僕の毎日の足となった。もう一つ、僕がはまった場所は、近くにある「バークレーボウル」というマーケットで、物凄い種類の野菜や果物の色に魅了されただけではなく、日本や他のアジアの食品がいっぱい並んでいることもびっくりだった。色々な野菜を入れてみてカレーとかを作って自炊を楽しんでいた他に、家の台所でベイキングの本を見つけた僕は、オーブンを初めて使って、マフィンやケーキにも挑戦してみた。
 BARTに自転車が乗せられることを知った僕は自転車で随分あちこちに行った。サンフランシスコのデ・ヤング・ミュージアムに行った時、一つの絵が僕をとらえた。三人の女性が連なってビーチに立っているこの絵は、快適な浜風を本当に感じてしまう。女性の頭の向きの絶妙な配置が、見るものをその場所に引き入れるのだろう。僕はこの絵の作者、Arthur F. Mathewsの作品をもっと見たくなった。
 図書館に行ってMathewsの作品のあり場所を調べてみると、地元オークランド・ミュージアム他、ベイエリアのあちこちに彼の手掛けた壁画などが点在していることが分かった。僕はこれらの作品をかたっぱしから見てみることにした。オークランド出身で、フランスで勉強したMathews(十九世紀終り生まれ)は同じく画家である奥さんと共にアールデコ調の壁画、木彫のデコレーションを幾つもの建物に残している。自転車に乗って、いくつかを訪れてみると、古いビルなどはもう、改装中だったりして、許可を得ないとみられないこともあった。僕があきらめずに事情を話すと、大体どこでも人々は協力的で、特別に入れてくれたりした。オークランド・ミュージアムで買ったMathewsの画集には、デ・ヤング・ミュージアムで見た油絵は載ってなかったので、どうしても写真を撮りたくなり、ミュージアムに話を持ち込むと、写真撮影のための特別の許可を発行してくれたり、スライド・フィルムを売ってくれたりした。
 僕の初めてのアメリカ滞在で、ある一枚の絵との出会いが僕にもたらしたアドベンチャーはこの地についてのポジティブな印象をもたらした。目的を持って自分なりに行動すれば、ほしい情報が入ったり、見たいものがみられる。熱意をもって語れば、周りが協力して導いてくれる。ただの旅行者として来ている僕なのに、どんどん地元に関係していけることを知った。この時の経験は、その後の僕のアメリカとの関わり方や姿勢を方向付けたと思う。

 せっかく一人旅をしようと勇んで日本を出てきて、バークレーで自由な生活を送っているつもりが、日本から母親と妹がやってきた。最初、彼女らの旅行を知らされた時は、「一人旅の邪魔しないで!」などと断っていたのに、聞かないで勝手にやってきてしまった。世界放浪などと格好つけていたわりに、日本を離れてわずか3ヶ月で家族と再会。いきなり日本の現実に引き戻されてしまった。今から考えると、放浪の旅に変な「孤独な修行」や「ロマン」を求めていた僕もおかしい。それに、来ると一旦決めたら何を言われようが実行してしまうという僕の母親。「この親にしてこの子あり」である。

 始めての海外滞在がバークレーになり、この地がその後も僕の世界旅行の中継地になる。この夏の滞在の後、南米を一年放浪、一度帰ってきて一年半の生活の後、今度は中近東、西アジア放浪。そして1994年、最終的にまたバークレーに帰ってきて、本格的に、アメリカでの芸術活動の拠点となる。1997年、「L7」というバンドのライブがサンフランシスコのクラブであった。七年前、当時のハウスメートのひとりが好きで聞いていた、女の子ロックバンドだ。懐かしくなって、ライブに行ってみた。七年後、L7の彼女たちは同じようにロックをやっていた。そして僕もまたアメリカにいて、まだ活動を続けて生活している。

 カラでの版画制作中、インターンで来ていた女の子とうまく話がついて、一度デートをしたこどがあった。その後彼女をモデルにして版画を一枚作ったりした。彼女の名前はマーガレット・キルガレン。当時は彼女の絵のことなどは全く知らなかったが、数年後活躍し出し、名前が出て来た。有名なアーティストと結婚した後、彼女自身のアートも更によく取り上げられるようになった。あれよあれよという間のスピード出世だった。ところが、スタンフォード大学の院を終了し、一児を儲けた直後の2000年、癌のために若年で死んでしまった。2002年にニューヨークのホイットニー・ミュージアムで彼女の作品が展示されたのに、それを彼女自身は観ていない。



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