プラハを発った朝

1999年夏にベルギーの版画工房での制作のためにヨーロッパにいた時の記録から。

 アムステルダムに戻るためにプラハを発ったのは早朝だった。チェコ共和国を旅行中ラニは風邪を引き、ひどい咳がもう四日もとまらない。最悪の状態のまま僕たちは翌日ヨーロッパを離れる飛行機に間にあわせるために計十六時間もの列車の旅にでることになった。
 列車の席で一緒になったのはカナダ人の夫婦だった。彼等にはプラハに住む親戚がプラットホームまで送りに来ていた。列車が出た後、お互いのチェコ、ヨーロッパ滞在を親しく話し合った。ラニの咳はあいかわらずひどかったうえ、車両の窓が開かず車内の空気がひどかった。僕たちは咳が迷惑かなと気がひけたが、彼等は気にせず、チェコ語や他のヨーロッパ言語の覚えた言葉について話していた。旅行者の典型的な会話である。
「チーズはフランス語で何だっけ?」四人のだれかが聞くと、
「チーズはフランス語ではフォルマージュ、、、」BR>  通路をはさんだとなりの席に一人で座っていたおばあさんが流暢な英語で答えた。
「ドイツ語ではカース」
 驚いた僕たちは聞き返した。
「あなたは何人なんですか?」
 彼女はプラハに住むチェコ人で今からドイツとイタリアに旅行に行くらしい。若いころ英語、ドイツ語、フランス語を習ったそうだ。それからずいぶん長く勉強することがなかったが、ここ何年か再び外国語の書籍を読み初め、なんとか能力を戻してきたという。チェコ語も入れると四ヵ国語を話すことになる。おとしはなんと八七歳ということだった。そんなかたが今ひとりで列車の旅をしている。
 東欧ユダヤ系アメリカ人のラニが思いついて尋ねてみた。
「あなたはユダヤ人ですか?」
 やはりそうだった。プラハには多くのユダヤ寺院が観光地として保存されているがユダヤ人自身はほとんどいない。第2次世界大戦の時ナチスは東欧諸国のユダヤ人狩りを強行し、チェコのユダヤ人も殺されるかキャンプに送られるかして一掃されてしまった。彼女によると大戦後ほとんどはアメリカやイスラエルなど新天地を選んだ。彼女は故郷プラハに帰ってきたわずかなものの一人だったのだ。ラニによると、当時のユダヤ家系には外国語教育を熱心に行ったものが多く、この女性のように数ヵ国語を話せる人が珍しくない。
 この旅行中ラニと一緒ということもあり、アムステルダムのアンネ・フランクの家をはじめヨーロッパにおけるユダヤ人の由緒ある場所を訪れた。ユダヤ人迫害が頂点にたった今世紀前半の歴史を各地で学んだ。そしてこの旅行が明日終わろうとしている今日、その歴史をくぐり抜けてきた人がとなりに座って僕たちに語りかけているのだ。
 子供たちも独立して今は一人暮ししているこの女性は外国語の書物を読むのを楽しみにしていたが最近目をわずらい、本が読めなくなってしまった。テープ朗読を代わりに聞いてはいるがやはり物足りないらしい。今回の旅行はドイツで友達に会い、そこからイタリアに連れて行ってもらうという。嬉しそうだが、これが彼女にとって最後の旅行になるだろうとも言った。
ラニの咳は相変わらずひどかったが、車掌が窓を開けてくれてようやく楽になった。2〜3時間の間、さらに僕たちはいろいろ話しをした。87才で目が悪いとはいえ、彼女の話す内容ははっきりしていて重みがあった。ドイツのレゲンスブルグで僕とラニはケルン行きの列車を乗り換えるために降りた。おばあさんとカナダ人はハンブルグにそのまま向かっていった。ヨーロッパの列車の旅ではいろいろな旅人が出会い、別れて行く。ヨーロッパは狭いようでやはり広い。ケルンまでさらに数時間、そこからブルッセル、アムステルダムと、まだまだ長い道のりだった。

(1999年8月)



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